日本文化の性格は近代というよりむしろ中世に近い?

少々毒のある本を読んでみた。あるある、な部分もあり、どうかな、と思う部分もあり、という感じ。ただ、日本文化の性格は近代というよりむしろ中世に近いのでは、という点については同感である。

令和もやっぱりハードボイルド―日本のアナーキーな精神世界―

中世においては――自分がここでさすのは室町時代だが――様々な閉鎖的なムラがマイルールを作り、他のムラと争ったりしながらも自分たちのムラの利益獲得を目指していたらしい。そこでは日本という国全体の利益などというものが考慮されないのはもちろん、普遍的な正義としての公正や善というものもなく、それぞれの――現代の視点からは身勝手とすら感じる――マイルールがまかり通っていたという。

その後の大乱を経て、江戸時代にはある程度統一的な法度が、さらに下って明治時代になってやっとこ日本全国で同じ法律が施行されたわけだが、文化というものはなかなか変わらないのか、室町時代を思わせるムラ社会のノリが令和になってもちらちらと顔をのぞかせる。それは自分も令和の時代に生きていてしばしば感じるところである。

こそこそマイルール

ところが一方で、モダナイズもされるのか、マイルールを暗黙の了解とか空気などの名目で持ち出すにあたり、その責任からは奇異に感じるほど逃れようとする特徴が令和日本にあると感じる。室町時代であれば、マイルールを持ち出すにしても「これが俺たちの掟だ文句あるか」とばかりに堂々としていたようなのだが、令和の時代においてはコソコソ持ち出すのだ。これは本来やるとまずいことだから当たり前でもある。慣習法や成文法、あるいは契約よりもムラのマイルールを優先されたら法治国家は成り立たない。ところがそれでも持ち出すことは持ち出すので、おかしなシワがおき、そのシワがだいたい理不尽な形でどこかの誰かに寄る寸法だ。

あらためたほうが良いのだろうが

外面と本性がズレきっているのは健全な姿ではなかろうから、改めたほうがいいと思われる。今までのやり方では通用しなくなってきたことでもある。だが、まさか今さら文明を室町時代まで戻すわけに行かないだろう。改めるとしたら文化のほうだろう。

しかし世情を見るに、改めるどころかなんとか居直ろうとしているような風情である。10年や20年では到底変わりそうにない。むしろ未来永劫変わらないのかもしれない。なにせ明治の頃から令和まで、その間に大変な出来事が何度も起き、世代も3世代か4世代は変わったにも関わらず、この問題を断固として改善しなかったくらいだ。改善されないほうに賭けたほうが当たる確率が高いに違いない。

ではどうする

さて、日本に中世文化がしつこくこびり付いているとしたら、それに悩まされずに生きるにはどうすればよいのだろうか。

一つの解として、海外が思いつく。情報革命がおき、グローバル化が進み、海外の業者とビジネスを行うことが昔よりもはるかに容易になった。海外に投資するのも容易な上に手数料もリーズナブルである。個人・零細でもチャンスがあるかもしれない。あるいは国内にいる近代的な人々と付き合えるよう工夫するのも良いかもしれない。日本にも合理的・進歩的な人はいるだろう。他にもいろいろな方法が考えられるが、どうあれ、工夫する術がなくもなさそうだ。よく状況を注視し、どうしたいのかをよく考え、必要なことを行いたいものである。